そうだお城へ行こう。
今回のお城は二本松城
戊辰戦争時に、奥羽越列藩同盟で主力の1藩として激戦をした二本松藩である。
「こんにちは二本松」
二本松城へは駅から徒歩20分程。
駅からすぐの場所に二本松神社があります。
この地へ入封した丹羽光重により、二本松領総鎮守社となる。光重の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神を下座に領民の守護神を上座に祀られている。
そして、二本松城へ行くまでに大手門跡がある。
奥州街道に面した久保丁口に築造された二本松城の大手門通称「坂下門」と言う。
写真撮り忘れた。
ちな、この大手門なかなかに藩主の想いが詰まっているようで、初代藩主丹羽光重が二本松に入封した際(1643)に大手門の造築を望んだが、藩の財政状況等で見送りになった。9代藩主長富の代に傑物家老丹羽孝明の構想で、歴代藩主の悲願であった大手門がようやく造築された(1832)。しかし戊辰戦争敗戦後(1868)ままなく取り壊される。
藩主悲願の思いで完成したが、30年程で無くなってしまうという。
気持ちの込もった大手門、見たかった。
大手門跡の先が、急な坂道でよいちょ、よいちょと踏ん張りながら登っていく。
坂道を登りきり二本松城の全体を見ることができる。
坂を下り城の前に、にほんまつ城報館があり立ち寄る。
ここで、二本松城の歴史を見ることが出来る。
ちな、二本松城跡は阿武隈山系の裾野に位置する標高345mの白旗ヶ峯を中心に、南・西・北を丘陵で囲まれ、東方がやや開口する自然の要害地形を利用して作られた城跡。
ちな、1414年畠山氏4代満泰が塩沢の田地ヶ岡より白旗ヶ峯に居を移し二本松城とするのが始まり。
ちな、1586年伊達政宗が畠山氏を滅ぼすと、伊達→蒲生→上杉→松下→加藤と城主が代わり1643年に丹羽長秀の孫、丹羽光重が二本松藩10万石で入城し、以後明治維新まで丹羽氏の居城となる。
ちな、二本松城は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれその変貌がよくわかる東北地方を代表する城跡。
ちな、1868年7月29日正午頃、戊辰戦争により落城。城兵、他藩の援軍併せて1,000人ほどで新政府軍7,000人と交戦したが多勢に無勢。戦死者337名、その内少年隊士14名含む。
ちな、※二本松城案内より参照
ここで二本松城の地図を貼っておく
①箕輪門
正面玄関にずっしりと構えている箕輪門。
この大手門までの坂道の途中にも戊辰戦争で市街地で戦い城に退避している時に亡くなった隊士の石碑もあり。
②洗心亭と霞池
城内には、洗心亭でお抹茶と和菓子を食べることが出来た。霞池と紅葉している紅葉を眺めながらひと休み。穏やかな空気が流れる。
そんな中、後から来たおばあちゃむとおじいちゃむが、店員さんと話をされていた。
「毎年この時期になると、ここへお抹茶を飲みながら紅葉を見にくる。これが楽しみなんだ」
良いぞ、これだ。
こう言うのが良いんだ。
自分も年取ったら、こう言う楽しみを作りたいもんだ。
全国の城に行ってこの時期はあの城で紅葉を見ながら抹茶飲むのがええんよって場所を増やしたいもんだ。
④傘松と丹羽霊祠殿
傘松どでかい。
丹羽家の家紋かっこいい。
⑤新城館と少年隊顕彰碑
⑤搦手門
⑥本丸
本丸の石垣も然り、本丸下の大石垣然り。天守が無くてもその石垣でさぞ立派な天守があったと想像出来る迫力がある。
本丸からの安達太良山の眺めは絶景!
⑦土塁と空堀
ほぼ人は居なかったが、椅子とテーブルがあり憩いの場に。
⑧日影の井戸、藩士自刃の碑
日本三代井戸の一つらしい。
城内のあちこちに戊辰戦争により落城時に責任を取り、藩家老などの高官が自刃している。
二本松城は、二合田用水を引いて水量豊富な霞池、布袋滝を含み、イロハカエデ、傘松など木々の美しさと天守からの安達太良山の景色と紅葉の季節にとても良い城だ。
また、幕末の奥羽越列藩同盟の一翼を担った二本松藩兵達の忠義心と駅から城までの各所にある藩士の戦死、自刃の碑が生々しい激戦の地でもあった。
正に戦と自然両方を堪能出来る城で満足!
この跡、三の丸辺りの出店で鮎の塩焼きと山菜そばを食べた。
そして二本松市が菊が有名らしく展覧会で沢山の菊が飾られていた。
二本松城、また行きたいですね。