あぁ長良川、長良川。

30代始まりと共に経験、技術無しサラリーマンの現状を垂れ流します。

柴田勝家 織田家の総司令官 和田裕弘

どうもこんにちは僕です。

本日の本はこちら

 

 

 

柴田勝家の実像に迫る書籍となっている。

 

家老として織田家を支えていた勝家ですが、特に北陸地方の総帥として活躍。しかし最終的に羽柴秀吉賤ヶ岳の戦いで敗れ、そのまま本拠地北ノ庄城で自害という最後でした。

 

敗者は往々にして、勝者に真実を捻じ曲げられて後世に伝えられるもので。

 

だけども、柴田勝家は違うだろうと思う。

信長から北陸地方を任された地方司令官なのだから、そんな勝家の活躍が存分に書かれた本だ!

是非勝家派の人は見てほしい。

 

そんな本の内容の中で自分がコレは!と思う勝家の活躍した部分を抜粋して記載したいと思う。

 

勝家さんと言うと、軍事面で強く猪突猛進の武辺者のイメージが強い。

「瓶割柴田」「鬼柴田」

と後に言われる逸話は、南近江の元領主であった六角承禎、義治親子が一揆を煽動し、勝家の籠城する長光寺町を攻囲した。この城は水の補給が困難な為、唯一の水の補給路を断った。この危機に勝家は城兵を集めて、城内にある水瓶はこの3つのみと打ち明け余力のあるうちに決死の戦いを挑むべしと鼓舞し、3つの水瓶を打ち割る。翌日には長光寺城を出撃し六角氏を討ち破り勝利をした。この話からこの異名が付けられたという。

 

1571年8月浅井氏の小谷城攻めと並行した一揆討伐にも従軍。勝家は先鋒として余呉、木之本まで放火し翌日帰陣。退却時に追撃を予想した信長は重要な役割である殿軍には勝家を指名、案の定敵方が追撃した方が勝家は3度まで返し合わせて追撃軍を撃退。

甫庵信長記には「今度に限らず大事の殿いをば、この柴田にぞ仰付けられからに、毎度利を得る事のみにして、失う事は無かりけり」と絶賛されている。

 

 

信長が行った合戦にはほぼ出席している武将だけに、そりゃ強い。

 

 

軍事面だけじゃない、ちゃんと統治もやってる勝家

北陸への領地替えの前は、1570年〜1575年に渡り、近江国蒲生郡に領地を持っていた。

しかし、一向一揆の勢力が強く、また長期にわたる六角氏の領国だった事もあり、この地域の支配は困難だっただろう。

更に河内国大和国での守備や長島一向一揆の従軍など多忙を極め領国統治に専念出来る環境でもなかった。そこから畿内までの外交や内政も行なっている。

 

毛利家の安国寺恵瓊の書状に尼子氏の再興を目論む山中鹿之介が勝家を通じて信長支援を取り付けようとしている内容が残っている。

 

 

完全に超過労働なのでは、、

 

仲良し3人が討死!この人らが生きてたら秀吉に勝っていたかもしれん!

 

1人目→和田惟政

甲賀の国衆。将軍義輝が暗殺された直後から、興福寺一乗院門跡となっていた義昭の庇護に努め、信長との折衝なども担当、義昭を将軍職につけた最大の功労者の1人。

上洛後には摂津三守護の1人として抜擢されたが、1571年8月、摂津守護の1人だった池田勝正の家臣だった荒木村重高山右近と郡山で戦い討ち死。

 

2人目→森可成

森蘭丸のお父さん。1567年から友好関係を続けていた本願寺顕如が挙兵。この挙兵と連動して浅井、朝倉軍が湖西を南下。宇佐山城を守備していた可成が小勢ながら両軍を一度は打ち破る。しかし、多勢に無勢、討ち死に。

 

3人目→坂井正尚

元は美濃斎藤家の家臣だったが、斎藤家滅亡後、信長に仕える。1570年の志賀の陣にて、朝倉軍の前波景当を討ち取るが正尚も討ち死。勝家と共に軍奉行と称される武将だった。

 

彼ら3人が討ち死にせずにその後も活躍を続けていれば勝家を中心とした派閥になり、山城大和守護を兼務した原田直政も加え、本能寺の変後、秀吉の出る幕も無かったかもしれない。

 

兎にも角にも勝家こそ誠の武士なり!!

1583年、秀吉軍が北庄城に攻め寄せる。勝家が長年かけて築城、天守は九重もある城郭である。

老人や女性しかいないなか、旗指物で城を飾り立てるなどの差配を見て、秀吉は近習の者どもへ「武将はかくぞ嗜むべきものなり」と褒め称えた。

最後を悟った勝家は秀吉軍に向かって「勝家の切腹の仕方を見て、後学にせよ!」と呼びかけ妻子初め一族を刺殺。勝家に最も親しい八十人余りの者が切迫し全員が死亡。

 

勝家は尾張時代から北陸時代とほぼ戦場に出突っ張りで最後まで戦い続けた武将だった。

敗者の常で残っている良質な史料が少なく、実像が見えにくいが織田家筆頭家老として、最後まで織田家への忠実な家臣として野心は感じられないが、秀吉の強烈な野心の前には守り一辺倒になってしまった感がある。これが勝家の限界だったのかもしれないが、

だからこその織田家筆頭 柴田勝家なんだろう!

 

是非とも勝家が辿った戦場を自分も辿ってみたいものだ。

 

 

 

お城探訪【二本松城】

そうだお城へ行こう。

今回のお城は二本松城

 

戊辰戦争時に、奥羽越列藩同盟で主力の1藩として激戦をした二本松藩である。

 

まずは郡山駅からJR東北本線に乗り二本松駅へ

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「こんにちは二本松」

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駅前に二本松藩少年隊の銅像あり。

 

二本松城へは駅から徒歩20分程。

駅からすぐの場所に二本松神社があります。

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この地へ入封した丹羽光重により、二本松領総鎮守社となる。光重の敬神愛民の精神から丹羽家の守護神を下座に領民の守護神を上座に祀られている。

 

そして、二本松城へ行くまでに大手門跡がある。

奥州街道に面した久保丁口に築造された二本松城の大手門通称「坂下門」と言う。

写真撮り忘れた。

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ちな、この大手門なかなかに藩主の想いが詰まっているようで、初代藩主丹羽光重が二本松に入封した際(1643)に大手門の造築を望んだが、藩の財政状況等で見送りになった。9代藩主長富の代に傑物家老丹羽孝明の構想で、歴代藩主の悲願であった大手門がようやく造築された(1832)。しかし戊辰戦争敗戦後(1868)ままなく取り壊される。

藩主悲願の思いで完成したが、30年程で無くなってしまうという。

気持ちの込もった大手門、見たかった。

 

大手門跡の先が、急な坂道でよいちょ、よいちょと踏ん張りながら登っていく。

 

坂道を登りきり二本松城の全体を見ることができる。

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坂を下り城の前に、にほんまつ城報館があり立ち寄る。

ここで、二本松城の歴史を見ることが出来る。

 

ちな、二本松城跡は阿武隈山系の裾野に位置する標高345mの白旗ヶ峯を中心に、南・西・北を丘陵で囲まれ、東方がやや開口する自然の要害地形を利用して作られた城跡。

 

ちな、1414年畠山氏4代満泰が塩沢の田地ヶ岡より白旗ヶ峯に居を移し二本松城とするのが始まり。

 

ちな、1586年伊達政宗が畠山氏を滅ぼすと、伊達→蒲生→上杉→松下→加藤と城主が代わり1643年に丹羽長秀の孫、丹羽光重が二本松藩10万石で入城し、以後明治維新まで丹羽氏の居城となる。

 

ちな、二本松城は中世城館と近世城郭が同一箇所で営まれその変貌がよくわかる東北地方を代表する城跡。

 

ちな、1868年7月29日正午頃、戊辰戦争により落城。城兵、他藩の援軍併せて1,000人ほどで新政府軍7,000人と交戦したが多勢に無勢。戦死者337名、その内少年隊士14名含む。

 

ちな、※二本松城案内より参照

 

ここで二本松城の地図を貼っておく

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①箕輪門 

正面玄関にずっしりと構えている箕輪門。

門の前には二本松少年隊の隊士が大砲を押している銅像が。

この大手門までの坂道の途中にも戊辰戦争で市街地で戦い城に退避している時に亡くなった隊士の石碑もあり。

 

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②洗心亭と霞池

城内には、洗心亭でお抹茶と和菓子を食べることが出来た。霞池と紅葉している紅葉を眺めながらひと休み。穏やかな空気が流れる。

そんな中、後から来たおばあちゃむとおじいちゃむが、店員さんと話をされていた。

 

「毎年この時期になると、ここへお抹茶を飲みながら紅葉を見にくる。これが楽しみなんだ」

 

良いぞ、これだ。

こう言うのが良いんだ。

自分も年取ったら、こう言う楽しみを作りたいもんだ。

全国の城に行ってこの時期はあの城で紅葉を見ながら抹茶飲むのがええんよって場所を増やしたいもんだ。

 

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④傘松と丹羽霊祠殿

傘松どでかい。

丹羽家の家紋かっこいい。

 

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⑤新城館と少年隊顕彰碑
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⑤搦手門

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⑥本丸

本丸の石垣も然り、本丸下の大石垣然り。天守が無くてもその石垣でさぞ立派な天守があったと想像出来る迫力がある。

本丸からの安達太良山の眺めは絶景!

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⑦土塁と空堀

ほぼ人は居なかったが、椅子とテーブルがあり憩いの場に。

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⑧日影の井戸、藩士自刃の碑

日本三代井戸の一つらしい。

城内のあちこちに戊辰戦争により落城時に責任を取り、藩家老などの高官が自刃している。

 

二本松城は、二合田用水を引いて水量豊富な霞池、布袋滝を含み、イロハカエデ、傘松など木々の美しさと天守からの安達太良山の景色と紅葉の季節にとても良い城だ。

また、幕末の奥羽越列藩同盟の一翼を担った二本松藩兵達の忠義心と駅から城までの各所にある藩士の戦死、自刃の碑が生々しい激戦の地でもあった。

 

正に戦と自然両方を堪能出来る城で満足!

 

この跡、三の丸辺りの出店で鮎の塩焼きと山菜そばを食べた。

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そして二本松市が菊が有名らしく展覧会で沢山の菊が飾られていた。

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二本松城、また行きたいですね。

 

 

 

お城探訪【三春城】

そうだお城に行こう。

 

今回訪れたお城は三春城

メディアで三春城は桜の名所だと聞いた事がある。

今年の秋は暑いから、ワンちゃん桜が勘違いして咲いている可能性を信じて向かうことにした。

 

まずは、東北新幹線郡山駅に降り立つ。

13時半到着。

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「こんにちは郡山。」

 

そんでもって、すぐにお昼ご飯。

駅中にある福島のお料理屋さん【もりっしゅ】さんへ行き、川俣シャモを使った親子丼を注文。

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卵とろっとろで、親子丼じゃなくて卵かけご飯食べてるんじゃないかと思うぐらいで卵も濃厚、鳥も噛むと旨味がジュワッと出てとても美味しかった。

 

さて、もう昼で時間もない為、さっと磐越東線で三春へ向かう。

でも、皆さん気をつけて頂きたい。

電車1時間に一本しか無い。

これは本当に時間を確認してから行くことをお勧めする。

というか、電車じゃなくてレンタカーとかで行くべきかもしれない。

 

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14時半頃到着。

「こんにちは三春。」

駅前は何も無い。

歩いているのが自分だけで、恥ずかしくなるぐらいの雰囲気を勝手に感じた。

 

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駅から歩いて20分くらいある。

あと、めちゃくちゃアブラムシ飛んでる。

 

当日の日の入りが16時半である為、時間が無いことに気づき急いでまずは歴史民俗資料館。

 

資料館は三春城跡の反対にありました。ちょっと坂道になってる。

三春城の歴史の部分の展示のみをサクッと確認して、直ぐにお城へ向かう。

(三春の生活とか産業のコーナーもあったよ。)

※ここで、三春城の地図の案内があるので先に資料館に寄ってから登ったほうがよりわかりやすくて良い。

 


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これは、資料館にもコーナーがあったが福島県における自由民権運動の発祥の地との事で、その主導者であった河野廣中氏の銅像

 

我が故郷、岐阜でも板垣退助が演説中に刺されて

「板垣死すとも、自由は死せず!!」

って言ったか言わないかはさておき、板垣氏の銅像がある。

詳しくは見れていないので、後程調べてみるのも良いかもしれない。

 

かなり日差しが傾いている為、急ぎ三春城へ行く。

 

ここで先に三春城全体の地図を載せておこう。

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しかし、罠がある。

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※①

これ、この門の奥が学校になっている。

近づくとこの先学校敷地内の為、立ち入り禁止と看板がありここからは入れない。

 

来た道を引き返し、御城坂から入城する事が判明。

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※②

写真撮り忘れたが、ここの坂30度くらいの傾斜でキツかった。

はぁはぁ言いながら登る。

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※③

春には満開に桜が咲くであろう立派な桜の樹。目的であるワンちゃん桜は咲いてなかった。

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※④

三の丸、二の丸は余り人が入らないのか落ち葉いっぱいで、二の丸に公園があり誰にも遊ばれていない動物達の儚さが胸をキュッとさせた。

 

哀愁感じる、

 

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※⑤

本丸跡はかなり広くて、見晴らしも良かった。あの彼方に見える山は、何山なんだ。

夕焼けも相まって、なんだかおセンチな気持ちになりながら城跡を堪能出来ました。

 

麓の小学校の子ども達が後から集団で遊びに来てて、この子達の中にも大人になって地元離れた時にここで遊んだ事や景色が良い思い出になる時が来るのかなぁ。なんてしみじみ思う。

 

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ちな、この三春城の城主だった田村清顕の娘が伊達政宗正室になっている。

 

ちな、三春城は田村義顕が1504年に築き、隆顕、清顕と100年ほどこの地を収めたが、1590年豊臣秀吉の奥州仕置きにより田村家改易となり、一旦伊達家領となる。

 

ちな、翌年には蒲生氏郷の領地となり、蒲生氏の重臣が城代となって本丸周辺に大規模な石垣を築くなど城と城下町の整備をする。

 

ちな、その後は上杉家→蒲生家→加藤家→松下家と目まぐるしく城主が代わり、最終的に1645年に秋田俊季が55,000石で藩主となり以後明治維新まで11代の居城となる。

 

ちな、戊辰戦争では奥羽越列藩同盟に加わるが、新政府軍の攻撃を受ける直前に恭順して無血開城となる。維新後は建物のみならず石垣や礎石まで払い下げられ現在はかつての面影は埋もれた石垣と天然の要害の地を残すだけとなっている。

 

ちな、案内の文章を引用しております。

 

帰りに駅までの途中に菓子屋【儀同】さんがあったので寄り道して


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程よい甘さで美味しかった。

 

三春城は桜満開の春に行くとより楽しめそう。

 

 

 

 

キングダム69

どうもこんにちは僕です。

 

今日は漫画ですが、久しぶりに胸熱になったので感想書かせていただきます。

 

 

 

※ネタバレなるので気をつけて!

 

「心配すんなお前達、全部上手くいく」

桓騎が戦の時、配下の仲間達に言うお決まりのセリフ。

 

これが、最後の絶対助からない場面で言うもんだから否応なしに心揺さぶられるセリフになる。

 

キングダムだと、王騎が死んだ時と同じくらい震えたシーンだった。

 

桓騎は敵に対しては悪逆非道な人物となるが、仲間に見せる優しさのギャップもあって凄い良いキャラだった。

 

大胆不敵!!

 

に相応しい人物でした。

 

配下の仲間も、粒揃いで、雷土、黒桜、厘玉、摩論、ゼノウ、オギコ、那貴、、、

 

桓騎軍とっても良かったぜ!!

乱都 

こんにちわ僕です。

 

今回の本はこちら

 

 

応仁の乱の発端から終焉までを描いた物語。

 

応仁の乱によって、人生を翻弄された将軍、武将たちの心理状況を細かく書き込まれた短編集。各登場人物の善し悪しが存分に出ている。

足利義輝の辞せの句、義昭の台詞も中々に良い。

 

畠山義就

「これが戦か。ならば、何も恐れることなどない。むしろ、己の全てをさらけ出すことができる、たった一つの場ではないか」

 

細川政元

「京は、人を滅びへと誘う魔性の地だ。守り難いとわかっていても、都を制したいという欲求に、人は勝てん。木曽義仲源義経も、南朝の帝たちも、そうして滅びていった、」

 

大内義興

「我が大内領を、誰からも侵されなぬ、この世の楽土としたい。夢物語と思うか?」

 

畠山高国

「馬鹿な。将軍家は武門の棟梁ぞ。その求めたあらば、従うのが当然ではないか。都に上がって天下に武名を鳴り響かせるのが、武人の本懐というものであろう。」

 

足利義輝

「五月雨は 露か涙か不如帰 我が名を上げよ 雲の上まで」

 

足利義昭

「三好の逆賊どもに、二度も将軍の首を渡すつもりか。武人の誇りがあるならば、逆賊を打ち果たして見せよ!」

 

応仁の乱の中心地である京へ、己の身を滅ぼすとわかっていながら、何故人々は惹きつけられ魅せられてしまうのか。

 

 

友よ 長宗我部信親

どうもこんばんは僕です。

 

今日の本はこちら

 

 

 

四国の覇者、長宗我部元親嫡男の物語

 

もう分かるだろうが、苗字がカッコ良い。

信長の野望で初めて選んだ大名だった様な気がする。

 

※ネタバレになるよ

 

信親は若干22歳で討死してしまう。

元親がめちゃくちゃ溺愛しており、信親死後の元親は性格が激変した振る舞いをするようになる。

 

今回の話では信親死後の話は無いため、その内容は含まれていないがやはり元親がどれだけ信親を溺愛していたか分かるような内容は盛りだくさんだ。

 

そんな期待を一身に受けた信親は捻くれる事なく、まさに期待通りの好青年に育った。

 

そんな青年は家臣を''友"と思い接している。

 

接しられている家臣もそんな御曹司にゾッコンな訳で、きっと自分もこのお話の信親と話したら友達になりたいし、友達と接してくれるだろうなーっと感じた。

 

最後は戸次川の戦いで、家臣七百で島津軍二万を相手に孤軍奮闘し、父である元親を逃して討死。

 

もし信親が生きていたら、長宗我部家内部で跡目争いはなく兄弟仲良く土佐を統治していただろう。

 

ただ関ヶ原では、義理を重んじて西軍につき結局改易になりそうな性格ではある。

 

しかしながら、爽やかな性格で物語の中では非の打ち所がない純朴で人思いな彼に多くの人が惹きつけられる理由がわかる。

 

この人の為なら、死ねる。

今の時代ではそんな事思えないだろうが、あの時代なら例え主君に好感が持てなくても武士の矜持で死んだ兵たちも大勢いただろうが、信親なら、信親の為なら、喜んでという気持ちになるのでは無いかと思う。

 

物語では信親は大の川好きで、川の話ばかりしている。

 

俗に言う、川馬鹿 である。

 

自分も生まれた土地に大きな川が流れており、彼と楽しく川談義をしながらお酒を飲み合いたいものだと思った。

 

長宗我部信親は、生きながらえていたらきっと明君として名を残しただろう。

 

有楽斎の戦 織田長益

どうもこんにちは僕です。

 

今回の本はこちら

 

関ヶ原の戦いと大阪の陣を中心に4人の男たちの視点から話。島井宗室、織田長益小早川秀秋松平忠直

 

後述の3人は偉大な兄や養父、祖父によって人生に大きな影響を与えられどこか現代でも上流階級だからこその苦悩や苦痛を味わう事で、一般人には理解出来ない発想をしており同情してしまう部分もあり面白い。

 

話の中心として織田信長の弟にして、茶道で名を馳せた武将である織田長益のお話。

 

兄信長が戦の申し子と云うべき活躍を見せる中、戦は滅法弱く取り柄がなかった長益が千宗易と出会い、茶道への道を追い求めて行く。

 

ただでさえ戦が嫌いなのに、兄と比較され余計に周りからは疎んじられる。そして本能寺の変で甥の信忠を見殺しにして、自分だけ生き残った事で更に軽んじられるようになる。

織田信長の弟という事で秀吉、家康らに利用された。だが、茶道を続ける為、極める為にやりたくない事もやる!!という徹底した茶道第一を旨に戦国乱世を渡り歩く。

 

織田有楽斎

「私は生き延びる。生きて、利休でさえ届かなかった境地に辿り着いてみせる。世間が私をどれほど口汚く罵ろうと、構うものか。」

「いずれ大阪の城は焼け落ちる。江戸城とて、いつ誰かに攻め落とされるかもしれない。だが私の茶の湯と茶室は世に残り続ける。それこそが、私を嗤い続けた者たちへの、最高の復讐ではないか。」

 

小早川秀秋

「この歴史に残るであろう大戦の勝敗が、秀秋の手で決したのだ。卑怯者、裏切り者の烙印を押されようが、これに勝る褒美はない。」

「勝ち負けなどは二の次だ。天下人になりたいわけでもない。だが、秀秋はすでに、戦がなければ生きてはいけなくなっているらしい。秀秋は兜を脱ぎ、大きく息を吸い込んだ。血と硝煙の臭いが肺を満たしていく。生きている。そう、心の底から思った。」

「そなたの天秤も、徳川に傾いたか。責めるつもりはない。主を密殺する代償に、そなたは何を約束してもらったのだ?」

 

小早川秀秋は、関ヶ原の戦いで西軍を裏切り東軍勝利を決定付けた武将であるが、現代の評価としてはその時の裏切りの所為なのか、評価が著しく低い。

だが、この物語の秀秋は戦に覚醒したスーパーサイヤ人の様な人物像になっている。

 

戦がなければ生きていけなくなっている

ヤバ過ぎである。

 

実際に朝鮮出兵の際に総大将として、他の錚々たる武将達の支えもあるが蔚山城を包囲されていた日本軍を救出するため、指揮をとり見事に明軍を負かしている活躍も見せる。

その時、先頭で指揮を取っていたために後に秀吉から総大将の行いでは無いと叱責されるぐらい前線で活躍していたのだから、暗愚ではないだろう。

 

松平忠直

「家康が死ぬ」

声に出して呟くと、不意に目の前が開けた様な気がした。今まで自分を押さえつけていた重い何かが、いきなり消えてなくなったような心地。

 

「大御所様、ご健在!」

 

「そうか。生きておったか」

誰にも聞こえない声で呟くと、大きく息を吐き、忠直は点を仰いだ。

込み上げるものを堪えきれず、夕空に向けて哄笑を放つ。ほんの束の間の、あまりに短い夢。滑稽さに、笑いはなかなか治らなかった。

 

物語の中の忠直も中々性格が曲がった癖のある人物像で、父である結城秀康も人質としてたらい回しにされた事から、祖父である家康のことをよく思っていなかった。

 

そんな父親思いの彼が、父を蔑ろにしてきた家康への憎しみのようなものが溢れ出ている。

 

みんな癖があり、彼等の気持ちも分からないでもない。